診ると看ると観る
患者さんの紹介で、自宅のテーブルを 「 工房イサド 」 さんに
依頼しましたところ、制作の為に雰囲気を 「 みたい 」 と
イサドさんを治療院に招き入れるや、言われた一言が
「 この床板、厚いですね … 」 だった。
どうやら家具作家さんは、床板の厚みまでわかるものらしい。
私はその理由をあえて聞きませんでしたが、施術にも
「 診る・看る・観る 」 という段階というか、患者さんの症状や
内面をどう捉え、どうすれば最良の方向へと向かうものなのか?
悩み、工夫、吟味しながら治療者も成長させられるものだと思っている。
● 診るとは、診察する。
文字通り症状や病名を的確に判断する必要性から、自分の中に培った
学問的症状検索と照らし合わせ、症状を観察する事です。
● そして、看る。
看るには、看護や看病と言うように、気を配ったり世話をするといった
ニュアンスがあり、相手の内面に少し踏み込んだ行為を施す事では
ないかと思います。
● それから、観る。
これは、念を入れて見る。眺める。見物する。などの意味があるそうですが
「 観音さま 」 の文字があてられているのが不思議でした。
「 音 」 を 「 観る 」 と書いて、観音と読みます。
イサドさんが床板を踏みしめた瞬間に捉えた感覚というのは、診るというより
観るに近いインスピレーションとも思えるし・・・
気になって検索してみると、観音菩薩の梵名アヴァローキテーシュヴァラには
ava( 遍く )+ lokita( 見る、見た )+ īśvara( 自在者 )という語の
合成語との説が、現在では優勢であるとの事 ( wikipedia より )
そして世間の出来事を自在に観察する意。救いを求める者の心に応じ
「 千変万化 」 するという意味もあるのだそうです。
さすがの観音様! 私の予想などは遥かに超えて、ある意味これは
究極というか、施術者の 「 我 」 を捨て去った先に 「 ミエテ 」 くる
ものではないかと思うのですが・・・
こだわりというのは、一種ストレスを抱えるみたいなものかもしれませんね。
そのお蔭で、人生に張り合いを感じる事もできるし、そのぶん自ら捨てようとは
なかなか思えないものです。
また、病気や怪我などは、ある意味では強制的なリセット環境を作り出す
要因と捉える事もできますし、さすれば自らが変化していかねばならぬ
事だってある。
私 「 風ある林整骨院 」 は、遍くどころか、「 遍路 」 を未だ
模索しながら、こだわりを見つけたり、捨てたりしながら今を彷徨っています。
しかし、そうこうしている間に、いつのまにか人間にも厚みのようなものが
備わってくれば良いなと思った次第。
家具職人イサドさんとの会話から得た気づきでした …
イサド通信 http://isado.cocolog-nifty.com/